高校2年生の17歳の時に家を引っ越した。たった数百メートルほどの移動で前の家にも行こうと思えば行ける程度の距離だった。
引っ越して3日くらい経った時、うっかり間違えて前の家の近くまで行ってしまったことがある。
約6年間見慣れた風景のはずなのに、何かが違う。もう、ここには私の居場所はない。
何も変わってはいない。変わったのは私たち家族がこの場所にいないだけだ。
北に通る高速道路を走る車の音も変わらず聞こえてくる、海の匂いも変わらない。
しかし確実に、昔とは空気が違うとでも言えばいいのか。とてもさみしくなった。そしていたたまれなくなって、急いで家に帰った。
見えないものは描けない。見えにくいものを見つめ、そこで感じたものを描く。
目の前には本当に何もないだろうか、そうではない。そこには必ず何かがある。
空気を読むとは上手く言ったものだ。
尊敬する作家の1人にパウル・クレーがいる。
彼は、「芸術は見えないものを見えるようにする」という考え方のもとに制作をしていた。
何度もスケッチやドローイングを行い、対象をじっくりと観察する。そしてそこから感じ取ったリズムや法則により作品を構成する。
本質に迫るためには、目に見えるかたちだけにとらわれていてはいけない。
私が描きたいことは空気だ。その場所に存在するあらゆる現象を含んだそれ、について。
たとえ同じ場所であっても感じる人間の体調や思い入れ、場所の天候や気温といった条件によって、その場所の空気は幾重にも表情を変える。
何気ない風景の中に確かに存在する空気の密度、色、流れなどを感覚を研ぎ澄ませて感じ取る。
選択した風景を三角形を用いて描写・構成する。絵を構成する三角形は万華鏡にインスパイアされたものだ。
万華鏡とは「玩具の一。三枚の長方形の鏡板を三角柱状に組み、色紙の小片などを入れ、筒を回しながら一方の端の小孔からのぞくと、美しい模様の見えるようにしたもの。/広辞苑」である。
この万華鏡の中に入れられた素材が、万華鏡の持つ秩序によって真の美しさへ磨きあげられ、輝きやきらめきをまとって世界を構築する。
まさに三角形は空気を表現するには最適のかたちだ。反復して空間を埋め尽くすこともできるし、あらゆるかたちをつつみこむこともできる。
この世界はたくさんの三角形で構成され、互いに均衡を保ちながら存在しているのではないかと考えた。
環境は刻一刻と変わり、あの体験をすることはもう二度とないけれど、今を生きるわたしの血肉として生き続けている。
少なくとも作品に出てくる風景は、どこかに存在したひとつの空間である。
きっと死ぬまで忘れない。